嶌田井書店

風の通る或る町に、稀にしか辿り着けない書店がある。

リトルインディアへ(1)

リトルインディアへ 

 

 シンガポールの雨は気まぐれだ。そして怒りっぽい。朝には爽やかな顔をしているくせに、午後になるとだんだんと気難しくなり、いきなり雷を呼んだり激しく雨を降らせたりする。小一時間ほど人々をずぶ濡れにするとすっきりするのか、ケロッとまた機嫌を直したりするのだ。日本で言えば「集中豪雨」のような雨も、熱帯雨林の島から見れば毎日のことで、はた迷惑な洪水もここ最近は起きておらず、天候的には恵まれているのではないだろうかとさえ思う。それもひとえにシンガポールのインフラが充実しているからで、どのバス停にも屋根が付いているし、地下街も発達しているので、雨を避ける方法などはいくらでもあるのだ。要は、雨は窓の外に降るからこそメランコリーを感じるものなのだ。


 十月に入ると雨季が近いせいか、雷を伴う雨がより一層多くなる。そしてそのころに、ヒンドゥー教徒にとって最も重要な行事、「ディーパバリ」がやってくる。新聞にはランプをモチーフにしたデザインの広告が溢れ、スーパーやデパートは一大セールを強調する。ディーパバリは「光の祭典」と呼ばれ、ヒンドゥー教徒にとってはいわゆるお正月のようなもの。服や家電などを新調したり、家を大掃除したり、オイルランプや電飾で飾り付けてこの日を迎えるのだ。中国系、マレー系、インド系、その他で構成されるシンガポール人の民族比率においてインド系は一割にも満たないが、中国系にとっての旧正月イスラム教の断食明け、クリスマスの他に、このディーパバリも国民の休日に定められている。今年のヒンドゥー暦によると、ディーパバリは十月二十九日。さて、そういえばしばらくリトルインディアに足を運んでいなかったなとふと思う。


 よくよく考えると、この国で暮らし始めてもう六年になろうとしている。シングリッシュと呼ばれるシンガポール訛りの英語にも慣れてきた。華僑がもたらした海南鶏飯(チキンライス)もラクサも心からおいしいと思う。ナシレマのように、辛いチリペーストやコクのあるココナッツミルクを多用するマレー系の食事も、なぜかわたしにとっては馴染みやすかった。シンガポールはアジアのハブとでもいうのか、アジア各国の食文化が集まっていて、「ここはアジアの大家族」、そんな感じがするのだ。しかしふと思うと、そういえば外出したときにあえてインド料理にはあまり手を出していなかったたことに気づく。さて、なぜだろう。

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(ディーパバリの電飾で飾られたサラングーンロード)

 

 インド系のひとたちとの交流がないわけではなかった。現にインド系シンガポール人の女性や、永住権を得たのちに、シンガポール帰化した北インド出身の家族とも懇意にしている。にもかかわらず、わたしはリトルインディアには二回しか行ったことがなかった。彼らに招待されて口にしたインド料理はどれもおいしく、珍しいスパイスや材料などは、ほぼリトルインディアで手に入れられたものだった。近所のスーパーでは欲しいものは売っていないか、種類に乏しいのだろう。彼女らにあれほど勧められたギー(バターオイル)やスパイシーピーナッツも、リトルインディアに行けば、オーガニックなものを選べるだろうか?もうすぐディーパバリじゃないか。夜のライトアップもまだ見たことがないし、そうだリトルインディアへ行こう。そうわたしは決めた。

             

文:河嶌レイ

 

(この記事は、2016年11月23日に開催された第二十三回文学フリマ東京で配布したフリーペーパーの内容と同じものです)

旅記事開設について・予告

先日の文フリ東京ではフリペをお配りいたしました。河嶌がシンガポールのリトルインディア、篠田が京都の祇園祭について書いておりましたが、実はそちらは初回です。これは連載記事だったのでございます。

 

これから第二回以降の記事がアップされます。乞うご期待!です。

 

(篠田くらげ)

豆崎豆太『我ら北高推理研究愛好会(非公認)!』

よく、文学賞の落選理由などで「人間が描けていない」などと言われることがある。あるらしい。馬鹿げた話だと思う。人間を描くとは何なのか。

 

豆崎豆太の書く人間たちが変わり者であることは、読んでみればわかる、と私は思う。かつて『異邦人』のどこが不条理なのかわからなくて頭を抱えた私であるが、作者の描く人間は確かに変わっている。変わっているが、人間である。

 

本書はその作者のミステリ小説である。物語は、高校生の失踪事件を、同じく高校生の「北高推理研究愛好会」のメンバーが解決しようとするところから始まる。状況の確認、推理、転回、結末。このあたりは作者のミステリ作家としての実力を十分に感じることができる。

 

しかし、作者のファンであるならば、推理の部分だけではなく、作者がどんな人間を描こうとしているかに注目せずにはいられないであろう。そして作者の世界に感嘆せざるを得ないであろう。なぜならば、世界とは結局のところ、人間から見た視界のことに他ならないからである。

 

では、読み始めるといい。不条理な世界に浸かるために。
作者のファンになってしまうために。

 

(篠田くらげ)

家登みろく・朝妻久美子『俳句・川柳共詠句集 混線』

篠田です。文フリ東京、お疲れさまでした。出店された皆様、一般参加の皆様、それぞれに楽しまれたでしょうか。

 

私が入手したものの中から感想を述べてみたいと思います。作者の方に伝わりますように、そして作品に興味を持たれた方に伝わりますように、と思います。

 

今回は家登みろく・朝妻久美子『俳句・川柳共詠句集 混線』です。

 

俳句と川柳について持っているイメージはどのようなものでしょうか。俳句は季語が入っているのですよね。「や」とか「かな」とか言ったりする、はず。川柳は、サラリーマン川柳みたいなやつ?ユーモアの入ってるやつ。

 

しかし、俳句も川柳もそれだけにとどまるものではないことを本書は教えてくれます。本書は、同じテーマでふたりの作者が独立して詠んだ句を集めたものです。

 

たとえば、「手帳」だとこういう感じ。

 

年新た手帳に繰り越す夢の数(みろく)
手帳から君がごっそり逃げている(久美子)

 

おおー。「初夢」はどうでしょうか。

 

初夢を忘れて今日を生きてをり(みろく)
幸せな人の初夢嗅ぎ回る(久美子)

 

こんなに自由なんだ、という感じがしないでしょうか。実に生き生きとしていて、現代を生きる人間の呼吸が伝わってきます。

とはいえ巻末のエッセイではお二人とも「自分のジャンルは難しい、大変だ」と書いていらして、短歌をやる私としては「そうだよなあ、大変だよなあ」と思うのですけれど。

575。57577よりは少し短いけれど、狭くはない世界の本でした。

 

(篠田くらげ)

文フリお疲れさまでした

第二十三回文学フリマ東京、お疲れさまでした。お越しくださった皆様、本当にありがとうございました。

 

たくさんの方にお越しいただき、私たちもとても楽しい時間を過ごすことができました。お買い上げいただきました方には、楽しいひとときをお届けすることができていたら嬉しいです。

 

またどこかでお目にかかることができますように。では、どうもありがとうございました。

 

(嶌田井書店一同)